『仏教瞑想論』蓑輪顕量

一般的に私たちは、仏教の修行といえばまず、座禅を思い付くのではないでしょうか。その他には、例えば常人にはなかなか近づき難い滝行や千日回峰行などの荒行や、多くの人が実践しているところでは、真言や念仏、お題目を唱える、あるいは写経などがあげられると思います。日本では現在でもこのような修行がポピュラーです。しかし近年になって、ゴータマ・ブッダ以来の初期仏教の伝統を比較的正確に継承している、テーラワーダ仏教(上座仏教)の教えが日本にも詳しく紹介されるのに伴って、仏教の修行の主軸は、やはり何といっても瞑想であり、その瞑想も、大きく分けて止(サマタ)と観(ヴィパッサナー)の二つのタイプがあることが、広く知られるようになって来ました。この『仏教瞑想論』(春秋社)は、仏教成立の基礎となったこの瞑想の二つの要素の違いがまず詳しく解説され、さらにそれらがいかに後世、日本を含む東アジアに伝播して、それぞれの地域の文化と融合して、新しい仏教の潮流を作ってきたかが論じられます。

手短にまとめると、止(サマタ)瞑想とは、何か一つの対象に心を向けて落ち着かせ、心の安定と平安を得る方法です。心を結びつける対象は何でもかまいません。例えば目の前の燭の炎でもいいし、鼻から出入りする呼吸の様子をじっくりと見据えてもいいのです。重要なのは、文字通り「ころころ」して絶えず落ち着きなく動き回る心というものを、半ば強制的にある一つの対象に縛り付けることによって、生まれつきの心の性質を変え、静めるのです。しかし、これは仏教独自の瞑想では決してなく、他の多くの宗教が、それぞれいろいろな方法を提示しています。

宗教学者の重鎮ミルチャ・エリアーデは、青年期にインドで熱心にヨーガの修行をして、そこでかなりの神秘的な体験をしました。しかし後年、その時期のことを回想して「あれは一体何であったのか…」というようなことを言っています。ここが止(サマタ)瞑想の限界です。つまりサマタによって心を統一し、心の安息を得、仮にものすごい神秘体験までしたとしても、瞑想を終えて一度日常生活に戻ってしまうと、その状態を持続することができないのです。言わば元の木阿弥です。ここからが仏教独自の方法と言われる、観(ヴィパッサナー)の出番になります。

止も観も、共に何かの対象に注意を向けることは一緒ですが、観の場合それが一つではなく、五感プラス意識にのぼる全てのことを平等に、分け隔てなく気づいていくのです。しかもそれはある区切られた時間の中ではなく、可能ならばずっと継続して行われるべきものです。そしてそれらに気づき続けることによって、気づきの次の段階に来る、自然と沸き起こってくる心の反応(好悪の感情や優劣の価値判断、様々な意味付けなど)へ、極力進まないようにします。なぜなら私たちは、対象そのものではなく、その対象によって引き起こされた私たち自身の心の反応によって苦しめられているからです。これは古い仏典の中で、「第二の矢を受けない」(「サンユッタ・ニカーヤ」)と表現されています。

この本の特色として、ある意味極めてシンプルな実践方法である止と観の瞑想が、どのようにして初期仏教の根本的な考え方である無常、苦、無我、そして縁起などの発見に到ることができたかが、詳しく語られています。この点について、私は長らく疑問だったのですが、本書によってようやく非常によく理解することができました。また伝来以来、中国や日本の仏教が、修行などの体験によってその教えを、個人が直接理解することよりも、書かれた経典の解析などの学問的な側面に偏って発達してきたことが指摘されています。著者も言うように、仏教はブッダの昔より「身体性を伴った実践が本流」だったのですから、それは決して理想的な展開ではありません。この『仏教瞑想論』は、この辺りの重要な問題点を、改めて深く考えさせてくれる好著だと思います。

テーマ : 仏教・佛教 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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